テラフォーミングに見える資本主義の本質 「拡大」から「持続可能」へシフトしよう
惑星の環境を変化させ、人類の住める星に改造する「テラフォーミング」。わりとSFで見かけるアイデアですが、あらすじとしては、汚染などで地球に住めなくなり、新天地を求め他の惑星の探索に出かけるというものが多いです。ここ最近では漫画『テラフォーマーズ』でも取り上げられていました。
実現可能かどうかは置いておいて、地球が環境汚染で住めなくなったときのために、ほかの惑星に移住しテラフォーミングしようという動きがあります。
めちゃくちゃ不思議に感じます、こういう考え方。
地球で暮らし続けることができないのに、ほかの惑星で暮らし続けられるわけがないと思います。地球は太陽光との距離感、大気の成分、多様な生態系などなどが複雑なバランスで成り立っている巨大なシステムです。こんな環境はほぼ奇跡といえます。
ほかの惑星を探すより先に、どうやって地球で暮らし続けることができるかを考えるべきだと思います。
現代は、「無ければ開拓・拡大」という価値観が強いです。国や民族間で程度の差はあれど、無ければ新たに利用できる資源、エネルギー、場所を開拓・拡大するという考え方は現代社会で多数派です。
これは資本主義の在り方が大きく影響しているのではないかと思います。歴史、文化、宗教、自然観など要因はいろいろあると思いますが、僕らの生活の中心にある経済もかなり影響を与えています。
【資本主義の「もっと先へ」精神】
いまの資本主義の根底に、「もっと先へ」という考え方があります。資本主義は資本を投下し、利潤を得て資本を自己増殖させることが基本的な性質です。投資することで資本を増大させる資本主義は、投資先が必要なわけです。投資が隅々にまで行き渡ってしまえば、投資の余地がなくなります。そこで新たな投資先を見つけるためにどんどん拡大を目指すんですね。
16世紀から17世紀のイタリア・ジェノヴァでは、投資がすでに隅々まで行き渡ってしまい、利潤を生みだすような投資先がありませんでした。当時、ワインのためのブドウ畑がいっぱいで山の頂上までブドウ畑があるほどでした。そこには利潤を生みだせるような投資先(ブドウ畑)がありません。また、17世紀にはスペインが南米から掘り起こした銀をイタリアの銀行に預け、大量の銀がイタリアに集まります。マネーは有り余っているが、投資先がない状況です。だんだんと資本が利潤を生みださなくなり、利子率が2%を下回るようになりました。
【拡大の歴史を繰り返す資本主義】
現代も同じ道を歩んでいます。
製品やインフラが世界各地に広まるようになり、投資先が無くなってきています。いま成長途中の発展途上国に投資をしていますが、いずれ経済成長にも終わりが来るので、いつまでも投資できません。リアルな地理的・物的空間(=実物経済)で先進国は高い利潤を得ることができなくなってきたというわけです。
そこで、アメリカを中心に「電子・金融空間」を創り出し、新たな投資先を作りました。そこはITと金融が結合して作られた空間で、瞬時に資本を海外に移動させることができるようになりました。資本は瞬時に国境を越え、どの国にいてもキャピタルゲインを稼ぎ出すことができます。
これまでは、地理的・物的空間(=実物経済)つまりリアルの世界で投資を行い、利潤を得ていました。しかし、リアル世界で投資先がなくなりつつあるため、「電子・金融空間」を作り新たに投資をできるようにしたわけです。
こんな動きを「空間革命」といいます。新しい空間を創造して、高い投資機会を見出そうとすることですね。資本主義の歴史は投資する空間を拡大させる歴史です。中世ヨーロッパでは陸の投資先がなくなると、海に投資先が拡大しました。当時、航路の覇権を握ったイギリスが世界の覇権を取っています。同じような歴史を繰り返しているんですね。
そして、リーマンショックがあったように、空間を作り投資先を作るのに限界が来ています。レバレッジをかけ、お金でお金を作っても、そこには実体がありません。バブルの生成と崩壊を繰り返すだけです。
【「拡大」から「持続可能」へシフトしよう】
とまあ、ここまで資本主義の性質について簡単に触れました。
「無ければ開拓・拡大」「もっと先へ」の価値観は、かなり僕らに浸透しています。
でも、このまま拡大を追い求めるだけでいいのでしょうか?いまは僕らが持続可能な暮らしを実現できるかできないかの瀬戸際にあると思います。
本当にそれほど拡大だけを追い求めなければいけないでしょうか?
人が幸せに暮らすためには、お金や便利な生活も大事ですが、ほかの豊かさも大切ではないでしょうか。
江戸は太陽光エネルギーだけで150万人が生活していた循環型社会でした。
拡大だけではなく、地球を尊重し持続可能性を高める方向性にシフトすることが必要です。
具体的にどんな方向にどうシフトしていくかは、固まり次第ブログにのせます!
太陽エネルギーだけで150万人が生活していた 江戸時代は本当にあった循環型社会
- 【江戸時代のすごさ エネルギー量がほぼ0で、150万人が生活できた】
- 【人力で成り立つ循環型社会=江戸】
- 【現代と比べてほぼゼロな江戸時代のエネルギー効率】
- 【カーボンニュートラルな江戸時代】
- 【便利さを追い求める社会 社会レベルの断捨離をする転換期】
【江戸時代のすごさ エネルギー量がほぼ0で、150万人が生活できた】
江戸は太陽光エネルギーだけで、100~150万人の人口と最大79㎢の土地を支えていました。世田谷区と杉並区を太陽光エネルギーと人の手で支えていたということになります。
現代の日本人は、便利な社会を動かすためのエネルギー源として、化石燃料だけで毎日一人当たり約10万キロカロリー使っています。重油換算でほぼ10リットル、摂氏0度の水1トンを沸騰させるのに必要な熱量です。
半端ないエネルギーコストの差ですよね。現代では重油ほぼ10リットルを使い生活が成り立っていますが、江戸時代はほぼ太陽光と人力で成り立っていたわけです。
【人力で成り立つ循環型社会=江戸】
江戸時代の人たちは、手足を動かし、衣食住に必要なあらゆるものを植物原料で作っていました。農業や製造など生産活動の動力は、ほとんどが人力で少なめに見積もって95%を占めていました。牛馬による運搬、水車による精米などは利用していたが、ほとんどは手足を動かしての生産です。
また、衣食住に必要な服や住居、家具は植物原料でしたし、陶磁器や絵など工芸品も自然に還る材料で作られていました。
原料も製造物も燃料もすべて自然に還る。
自然の循環システムの中でうまく生活する、限りなく循環型に近い暮らしだったといえます。
現代は化学化合物を利用することで、原料も製造物も自然の循環システムから外れてしまい、「ゴミ」として溜まってしまっています。江戸時代の暮らしを見ればわかるように、埋め立てないといけない「ゴミ」はもともとありませんでした。現代の産業システムが「ゴミ」を生み出し、ゴミ問題を引き起こしています。
「ゴミ」を生み出す産業システムの現状や、「ゴミ」を生み出さない産業の在り方について書かれた本をこちらにまとめているので、よければどうぞ!
【現代と比べてほぼゼロな江戸時代のエネルギー効率】
人力によるエネルギー消費量はせいぜい1日1人あたり1000キロカロリー程度(食べる食料の食品エネルギーを上回ることはないため)です。つまり、当時生産に利用されるエネルギー量は1000キロカロリー(人力)+その他(牛馬や水力)ぐらいでした。
太陽光のみを「エネルギー資源」として使っていたというわけです。
現代とはエネルギーコストが比べ物にならないほど少ないですね。
人力や太陽光エネルギーだけで産業を回せば、効率は低いのでは?と思う方もいるでしょう。
【江戸時代の生産効率の低さとエネルギー効率の高さ】
確かに、江戸時代のような手工業による産業はきわめて生産効率が低いです。紙の製造を例に取るなら、原料になるコウゾという植物を育て、成長した枝を鎌で切って皮をはぎ、複雑な手作業の工程を経てから1枚ずつ人手によって漉(す)いていきます。大きな紙を1分間に何十メートルもの速度で連続して漉くことのできる最新の製紙工場を新幹線とすれば、せいぜい人力車ぐらいの生産力にすぎません。
ところが、エネルギー効率、つまり製造に必要なエネルギーと生産量を比較するなら、江戸時代の産業のエネルギー効率の良さは驚異的でした。
現代は生産活動に必要なエネルギー・コストをパッと上げるだけでも、石油、電気、機械などがあり、エネルギー消費量はかなり多いです。単純な比較はできませんが、現代は毎日1人当たり約10万キロカロリーを消費しています。現代に比べると、江戸時代はエネルギーコストがほぼ0で生産活動や暮らしを行っていたといえます。
【カーボンニュートラルな江戸時代】
江戸時代はカーボンニュートラルな暮らしでもありました。つまり、何かを生産したり、活動を行った際に、排出される二酸化炭素と吸収される二酸化炭素が同じ量であるということですね。それは薪炭がメインの燃料だったおかげです。
化石燃料を燃焼させると、温室効果ガスが大気中にたまり、地球の気温は高まります。地球温暖化については、情報が錯綜し諸説ありますがここら辺は確かでしょう。ときどき、化石燃料を燃やしても地球上のCO2量は変わらないから問題ないという議論を見かけます。
そんなことはありません。化石燃料はもともと動植物の死骸が堆積してできあがったので、炭素で構成されているのは事実です。でも、化石燃料はCO2ではありません。重要なのは、CO2が温室効果ガスであり、大気中に増えると気温が上昇するということ。化石燃料を燃焼すれば、C(炭素)やO(酸素)の原子量は変わりませんが、分子であるCO2の量は変わります。
薪炭を燃料に使えば、薪炭を燃焼することで大気中にCO2は放出されますが、新たな別の植物がCO2を吸収します。CO2は大気中と植物の体内を循環するので、カーボンニュートラルな状態だといえます。
【便利さを追い求める社会 社会レベルの断捨離をする転換期】
江戸時代は生きるのに直結する仕事がほとんどでした。基本的に衣食住にかかわる仕事で、ほかに芸術や娯楽、行政関連などありましたが、現代と比べるとめちゃくちゃ少ないです。逆に言えば、いまは生きるのにそれほど必要ないことに過剰に資源・エネルギーをかけているといえます。
例えば、ペットボトルは便利ですが使い終わればすぐゴミになります。海洋魚の量より海洋のプラスチックごみのほうが多いとまで言われているほど、ゴミの量が増えている中、あえてペットボトルを使う理由はあるでしょうか。水筒を使えばいいのでは?と思います。
一昔前に断捨離が流行りましたが、暮らしにそれほど必要のないもの、優先順位の低いものを見極める時期、社会の在り方レベルで「断捨離」をする転換期にいるのではないでしょうか。
◆江戸時代をエネルギー効率や循環型社会としての側面で説明してくれています
ペットボトルの再利用には製造の7倍エネルギーと資源が必要!? 環境問題のアクションを考える
【既得権益が絡むリサイクルの実情】
僕たちはリサイクルのため、ペットボトルを分別して捨てています。回収されたペットボトルは粒状にまで砕かれ、プラスチック容器や繊維として再利用されます。
実際のところ、回収されたペットボトルがどれぐらい原料として再利用されているのか知っていますか?リサイクルのためにどれぐらい資源やエネルギーが使われているか知っていますか?
諸説ありますが、平成16年に回収されたペットボトル24万トンのうち、再利用されたのは3万トン~23万トンという主張があります。再利用率が12.5%から95%の幅があるということです。すごい幅ですよね?
これはリサイクルに関わっている人たちの利権が絡んでいるため、正確な情報がなかなか公開されにくいということが大きな原因です。これでは僕らが普段やっているペットボトル分別が意味があるのかどうかもわかりません。
リサイクルの費用対効果やそもそもの効果については、いろいろ議論があります。
『環境問題ななぜウソがまかり通るのか』は極端な主張で当時物議を醸したそうですが、それについて反論も多く出ました。
結論から言うと、持続可能な社会のために必要なものを根本的に考えるべきで、いまがそのタイミングだと思います。
【リサイクルのお金の流れ】
ペットボトル再利用までの流れは
①市民がペットボトルを分別
②行政がペットボトルを回収、リサイクル事業者に渡す
③リサイクル事業者がペットボトルを再利用処理する
という順序がとられています。
③において、どれぐらいペットボトルが再利用されているのか、そのためにどれぐらいのエネルギー・費用が使われるのか公開されていません。
それには2つ要因があって、
- 行政はリサイクル事業者がどこまでペットボトルを再利用しているかの責任を持っていない
- 「リサイクル率」の数字が高いほど、拠出金を手に入れられる
という現状があり、その利権が絡んでいるため、なかなか情報公開がされていません。
極端なことを言うと、リサイクル率の数字を上げるためにペットボトルを引き取るだけ引き取って、焼却するということも可能なわけです。
そこらへんの実態は既得権益が絡んでくるため、公開されていないことも多くブラックボックスなので、なんともいえませんが・・・。
また、そもそも現状のリサイクルは本来の「リサイクル」ではありません。
【そもそもリサイクルとは?】
リサイクルとは、 廃棄物等を原材料やエネルギー源として有効利用することで、モノを循環させ再利用することが理想です。
ですが、いまのリサイクルはダウンサイクルで、エコ効率を追い求めています。
ざっくりいうと、いまの産業が与える環境への影響を緩和させ、現状の深刻化を引き延ばしているに過ぎないわけです。
現状のリサイクルの問題点については、過去記事でまとめていますので、よければどうぞ
特にペットボトルをリサイクルするには、7倍のエネルギーと資源がかかります。ペットボトルはもともとリサイクルする用に設計されていません。リサイクルしようとしてもペットボトルは純度の低いプラスチックになり、そこからプラスチック製品を作るとなると、新たにプラスチック製品の原料を足したりする必要があります。また、リサイクルするにもトラックの燃料やベルトコンベアーなど処理設備にエネルギーを使います。実際、無駄の多い工程といえます。
【僕らは暮らしの転換期にいる】
とまあ、ペットボトルのリサイクル効率性や効果を簡単に取り上げましたが、そもそもペットボトルを使う必要があるのか?と僕は思います。
確かにペットボトルは軽いし、いつでもキャップを締めることができて便利です。ペットボトル飲料を買うのが当たり前の世の中ですが、いつからそうなったのでしょうか?
ペットボトルは60年代から70年代にかけて、アメリカで技術開発・特許取得がされました。アメリカは石油埋蔵量が世界トップ3に入ります。石油需要を拡大するため、ペットボトルの流通もどんどん拡大させました。
80年代には日本でもしょう油の容器にペットボトルが利用され徐々に広がっていきました。
アメリカがペットボトルを広めたわけですね。人間が生まれたときから、ペットボトルがあったわけではありません。ペットボトルが無い生活を模索できるはずです。
上記はわりと極端な例でしたが、既存の市場を白紙にして、削減したりそもそも無くしたりする主張をすると、既得権益が絡んでいる人や、経済成長を最優先にする層から批判されます。経済競争から逃げているだけではないかという論調もWeb上で見かけます。
でも、僕らは転換期にいます。
確かにペットボトルを使わないようにすれば、その市場がストップし利益は減るでしょう。それは短期的な利益です。
いまの社会は産業革命から始まり、形成されてきました。化石燃料に依存するエネルギー戦略は持続不可能です。いまの暮らしの在り方はあくまで一時的なものに過ぎません。
ゴミ問題がやばいのは事実です。
海でのプラスチックごみが魚の量を上回っているという話も出ています。
ペットボトルのリサイクルにどれだけコストをかけるか、ペットボトルは焼却するか否かという議論も短期的には大切です。
でも、いまの経済市場の便利さ、既得権益にぶら下がる形から脱却し、新しい在り方にシフトしていく必要があります。
いまの暮らし、価値観をシフトさせ、持続可能な在り方を作っていく必要があります。
そのためのアクションはまだまだわかりませんが、関連情報やアクションについて、ブログで発信していきます!
母が作り上げる自律分散型社会~なぜ縄文人は1万年以上も持続的な暮らしができたのか?~
1万年以上も暮らしを持続できた縄文人。なぜそんなことができたのでしょうか。
先住民(ネイティブピープル)は自然とのつながりを大切にし、リスペクトしてきました。
けど、価値観だけで1万年も暮らしを続けることはできません。食糧事情やコミュニティの運営、文化など、持続的な暮らしにふさわしい形があったはずです。
『縄文人に学ぶ』(2008)は縄文人社会について書いてくれています。
縄文人がなぜ1万年以上暮らしを持続できたのかをまとめてみました。
【縄文人の暮らしと食糧事情】
縄文人というと髭ぼうぼうの野蛮人を思い浮かべる方が多いのでは?縄文人は「僕らの祖先」であり、「山や海の幸に生きた人々」で、その季節性の豊かさから「定住生活をしていた」と考えられます。ワラビ、ハマグリ、タイ、アユ、イノシシなど僕らと同じ食べ物も食べていました。
縄文人がいた当時の日本列島は、いまの関東平野や大阪平野など大平野のほとんどが水面で、盆地も大半が湖沼でした。低湿地帯は害虫や病原菌が多く、土砂崩れや洪水も珍しくありません。人間が住めるのは山ぐらいで、少人数に分かれ、海の近くの尾根や丘隆の高みに住まざるをえませんでした。食料量は多くないものの、山には四季の変化と多様な動植物があります。彼らは半径3kmぐらいのテリトリーを作って、海と山の幸を手に入れて生きていました。
そこの暮らしで主導権を握ったのは女性でした。山での暮らしは「狩猟・採集型」です。食べ物を手に入れるには、そのテリトリー内で木の実を集めたり、貝を拾ったり、罠や落とし穴を創ったり、簗や筌など罠を仕掛けたりしていました。腕力ではなく、手先の器用さや知恵を絞ることが大切だったんですね。
「農耕中心史観」からすると、狩猟・採集は農耕より原始的な生産行為とされていますが、その採集が1万年もの間生活を支えていました。彼らは自然の知識を蓄え、気候変動で食糧事情が変わっても工夫して対応しました。おそらく、食べ物を取り尽くさないように何を取って、何を残すかというノウハウを貯め、持続的に自然と付き合えるように考え抜いていたと思います。
出典:茨城県立歴史館・特別展「縄文のムラ弥生の村」展示図録より
【母が支えた縄文社会~母系制社会~】
◆母が力をもつ母系制社会
◆村が点在していたのに、人・モノの交流が盛ん
の2つが縄文社会の特徴といえます。
縄文人は血族で集まり、各々がバラバラに小規模な村を作り、暮らしていました。そこでは女性が家のことを取り仕切り、力を持ちます。血族で集まったコミュニティでは何か問題が起こっても年長者が丸く収めやすく、情でつながっているため安定しやすいです。血族が集まるため、コミュニティは安定しますが、一つ困ったことが起こりました。若い男女の出会いがなかったんですね。
若い男性は女性と出会うため、他の村まで求婚にでかけました。求婚するために手土産でヒスイなど貴重なものも持って行きます。ヒスイの原石は日本では新潟県の姫川上流でしかとれません。にもかかわらず、全国各地の縄文住居跡からヒスイの原石が発見された理由がこれです。
当時は一般に同棲を伴わない妻問婚というものが行われていました。古文の授業でよく出てきた平安貴族男性が女性のもとに夜な夜な通っていたあれみたいなものですね。その男女の関係性は一過性のもので、女性に子供が生まれても男性は認知しませんでした。女性は産んだ子供をすべて自分の子供として、その家で育てます。
結果として、母が強い母系制社会ができあがりました。育児と家の持続が中心になり、その家や村の安定が続いたと考えられます。
おもしろいのは、父系制社会だとコミュニティが点在した状態では続かなかったと、上田氏が考えているところです。父系制社会だと、強い男性を中心に子供が増え、その勢力が拡大します。テリトリーの拡張と分裂が起こりやすくなり、各地のコミュニティ間で争いも増えていたでしょう。
各コミュニティがそれなりの規模で安定していたからこそ、縄文時代全体が安定し続けたと思います。男性性と女性性が社会の在り方を左右するのはおもしろいですね。
【自律分散型社会=持続可能な社会の形の1つ】
縄文時代の社会は、まさに自律分散型社会だったといえます。各コミュニティが小さな母系制社会として安定していました。だからといって、孤立することはなく人やモノの交流は盛んで、各地の特産物や情報が交換されていました。
自然を尊重しながら深くつながっていた、平和な縄文時代。自律分散型社会は持続可能な社会の一つだと僕は思います。
コミュニティの規模が大きくなかったため、都市も王国も、マーケットも学校も作られませんでしたが、みなさんはどんな社会の在り方が理想ですか?
僕らは歴史の変わり目に立っています。
いまは化石燃料がメインエネルギーで、大量生産・大量消費です。僕らにとって、これは常識で、ずーっとこのままだという感覚を持ってしまいがちです。が、そもそもいまの持続不可能な在り方は産業革命から始まったせいぜい250年ぐらいの歴史です。縄文時代やこれまでの歴史と比べると、変化の小さな波の一つでしかありません。
僕としては、現状維持はナンセンスだし、縄文時代にそっくりそのまま戻りたくはありません。
これまでの文化や世界観からいいところを学び取って、新たな在り方を探ることがとても大切だと考えています。
すぐに答えが出るテーマではありませんが、考え続け、ブログでの発信も続けていきます。
みなさんはどんな社会の在り方がいいですか?
世界最長1万2千年の歴史をもつネイティブピープル ~その世界観と持続可能な在り方~
先住民/ネイティブピープルはめちゃくちゃすごいです。現代にまで続く文明ができる以前から存在したけども、いま僕らの社会が目指すべき在り方をすでに体現していた人たち。実は「縄文人」も日本列島における先住民/ネイティブピープル。縄文人は木の実や貝を採集し、獲物を狩る「狩猟採集型」の暮らしで1万年以上暮らしてきました。1万年ってやばくないですか?
産業革命から200年強で、僕らが持続不可能な暮らしをしているのに対して、1万年ものあいだ縄文人はコミュニティを作り、暮らしてきました。
その差はどこにあったのか?
ずばり、自然観の違いにあります。
僕らが持続可能な社会を創りあげていくために、活かすべきエッセンスをネイティブピープルは持っています。
【先住民/ネイティブピープルは何者?】
そもそも先住民(ネイティブピープル)とは何者か?先住民(ネイティブピープル)と聞くと、多くの人はネイティブアメリカン(インディアン)を思い浮かべるのではないでしょうか?ネイティブピープルはアメリカ大陸にいる彼らだけではありません。実は縄文人もかつて日本列島に暮らしていたネイティブピープルです。
ネイティブピープルは世界各地で暮らしていましたが、現代にまで続く文明が世界に広がるにつれ、住む場所を追いやられ、姿を消していった歴史があります。縄文人も弥生文化(農耕文化)が現れてから、姿を消していったと思われます(縄文人は研究がまだ進んでいない部分も多いので、なんともいえないですが・・・)。
【ネイティブピープルと現代人の違いとは?】
ネイティブピープルとノン・ネイティブピープル(現代人)は根本的に世界観が違います。生き方、自然への接し方がまったく違います。
大前提としてネイティブピープルは、「我々は地球に属する」世界観をもっています。そして、あらゆるものが自然のシステムの中で循環し、有機的に再生し続けることを理解し、人間も自然の一部だと知っています。
「地球は我々に属する」というのがノン・ネイティブピープルの世界観。人間は自然を支配し、コントロールできるという認識です。
違いがわかりやすく表れているのが、何を望むのかという「祈り」の中身です。
◆ノンネイティブピープル:
「今日よりも明日がよくなりますように」。明日はもっと素晴らしくなるはずだという前提があります。
◆ネイティブピープル:
「今日と同じ日が明日も続きますように」。今日という日が素晴らしいので、この素晴らしい日が明日も明後日も続きますようにと祈ります。
毎日がビューティフルだから、今生きてここに存在していることはそのまま「宇宙にある万物を作られた存在からの贈り物」とネイティブピープルは認識しています。生まれてからずっと周囲の自然環境と密接な関係を持ちつつ育ってくる彼らは、はじめから季節の移ろいやありとあらゆる天気の変化が、私たちのみならず地球そのものの存続にとって絶対に欠かせないものだということを知り抜いています。彼らは地球に対するリスペクトを忘れません。
この価値観は「足るを知る」(中国の老子の言葉)といってもいいかもしれません。自分を生かしてくれているものに対する感謝。ネイティブピープルはその在り方を地でいっていたのでしょう。
【なぜ、縄文人の暮らしは1万年以上持続したのか?】
ネイティブピープルは、自然とのつながりと、「和」の精神を大切にする暮らしをしていたといえます。
彼らの生活スタイルは、「狩猟採集」。日本列島では縄文人も「狩猟採集」の民でした。一般的にイメージされるような獲物を求め場所を転々とし、狩る暮らし方ではありません。ネイティブピープルの世界観において、「狩猟採集」もまた広義の意味では「農」の一部と考えられていました。彼らにとって、「地球の大地そのものが、まるごとそのまま自然の大きな畑」だったのです。かなり驚きなのですが、縄文人は「定住型」の「狩猟採集」生活を行っていました。
出典:縄文期は“争い”が少なめだった? ~暴力死亡率は1%台…岡山大教授らの人骨分析
農耕をしているわけでもないのに、同じ場所で暮らし続けるのを想像できますか?そこで暮らし続けるには何を残し、何をどれだけ取っていいのかを考え、自然を尊重しながら暮らしていたと僕は考えています。
自分だけ満足するのを良しとせず、同じ土地に住む他人が満足して暮らしていくにはどうすべきか?土地周辺の人々も暮らしていけるようにはどうべきか?ということを考えていたはずです。そうじゃないと、1万年以上も暮らしていけません。
ここら辺の感覚は、「和」の価値観と近いものがあるのでは?と考えています。現代より人口はかなり少なかったのでやりやすかったというのもあると思いますが、他人も自然も尊重する暮らしの在り方というのは、これからの時代の大きなポイントになる気がします。
◆日本人がネイティブピープルを紐解いています。とっつきやすくおすすめ!
持続可能な在り方 ~ネイティブアメリカンから学ぶ~
ネイティブアメリカン(インディアン)の思想、言葉に触れたことはありますか?
彼らの在り方はこれからの時代の最先端を行っていると思います。
出典:http://free-photos.gatag.net/2014/12/14/110000.html
化石燃料で無理やり自然をコントロールする暮らし・経済の在り方に限界が来ています。化石燃料の枯渇、大量生産・大量消費によるゴミ問題、産業廃棄物の汚染などなど、いまの経済のやり方を続けてきた結果、いろいろな問題が現れています。このままいけば十中八九、地球に限界がきて僕たちの暮らしは成り立たなくなるでしょう。いまは持続不可能な社会です。
【7世代先を考えるネイティブアメリカン】
ネイティブアメリカンは7世代先のことを考えて暮らしています。
彼らの子孫が暮らしていけるよう自然が持続するように、ルールを作り森を伐採し水を使う。現代経済のやり方とは正反対です。
ネイティブアメリカンは地球に根を生やした生き方や暮らし方をして、自然と調和しています。
これが本当にすごいんです。
自然と深くつながっているからこそ出てくる言葉。
せせらぎや川を流れる輝かしい水は、ただの水ではなく、われわれ祖先の血だ。湖の水面に映るどんなぼんやりとした影も私の部族の出来事や思い出を語っているのだ。かすかな水の音は私の父の父の声なのだ。
シンプルながら、真理をついた言葉だと思います。
【日本の「和」とネイティブアメリカンの在り方】
実は僕ら日本人にも親和性の高い在り方だと感じています。
自然を畏れ敬い共存してきた八百万の神の自然観や、里山文化があるように、日本も自然と調和することを大切にしてきました。
里山は100%自然のままに放っているのではなく、人の手が入っています。
村のみんなで里山を管理し、里山を維持するため森の間伐や田んぼの手入れなどのルールを作り守ってきました。適切な間伐によって、山林はより良い状態になり、田んぼを管理することでトンボやメダカの棲み処になる。人の手を加えつつ、自然とうまく共存する在り方を構築してきました。
出典:http://cazual.tv/archives/16579
自然を征服するのではなく、共存する「和」の心、あるがままの自然を受け入れ調和するインディアンの思想。かなり近いものがあると思います。
【ネイティブアメリカンの思想に触れよう】
インディアンの在り方は現代の暮らし・経済とは反対の位置にあります。最初はなんだこれ?と度肝を抜かれるかもしれませんが、これからの持続可能な社会を考えるヒントになると僕は確信しています。
持続可能な社会実現に関心がある人はぜひインディアンの思想に触れてみてはいかがでしょうか?
◆ネイティブアメリカンの言葉をそのまま味わいたい方におすすめ
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◆絵本でインディアンの教えに触れる
こころに すむ おおかみ (インディアンのティーチングストーリー)
- 作者: oba,中村光宏HiroEagle,北山耕平
- 出版社/メーカー: じゃこめてい出版
- 発売日: 2014/11/19
- メディア: 大型本
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◆ネイティブアメリカンと縄文時代の文化を結びつける 目からウロコ
自然観の違いが生む対立
美しい自然の景色を想像したとき、パッとどんなものが思い浮かびますか?
出典:http://cazual.tv/archives/16579
山や海、森、滝などいろいろな景色を思い浮かべるかと思います。
環境保護活動をしている人に何を守りたいかを聞いてみると、ある島の環境を守りたい、アマゾンの森林を守りたい、ある絶滅危惧種を守りたいなどの答えが返ってきました。
守りたい対象は人によって意外とバラつきがあります。
一口に環境保護といっても、ある特定の何かを守りたいということが多い気がしますね。何を守りたいかは人によって違います。
これは生まれ育った文化の自然観や最初に出会った美しい自然が何かといった原体験が影響しているかもしれません。
【文化による自然観の違いと対立】
ヨーロッパ式と日本式の庭を見ると、文化による自然観の違いがわかりやすく出ています。
左が西欧の庭、右が日本の庭です。見た感じの違いいかがでしょうか?
日本庭園と西欧庭園の違いは、自然に対する捉え方の違いと言われます。
日本では自然には勝てないという考えから自然との共存に敬意を示し、人工物が池や山の中に埋没し、人が自然を受け入れることで、四季のままに池泉回遊を楽しむという造形が生まれました。朽ちていくという自然の摂理さえも受け入れる自然観が、いわゆる、侘び・さびという日本独特の価値観となっているのです。
一方、西欧では、文明の力で自然に勝って支配するという感覚が強く、まるで人工物のような幾何学形状として自然の表現を変える、平面幾何学式庭園が好まれました。
時代によってヨーロッパでも日本的な庭、その逆パターンも出てきますが、根底には文化がもつ自然観があると思います。
自然観の違いが対立を生むこともあります。
2009年度アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した『The Cove』は、和歌山県太地町で行われているイルカ漁を描いています(作品自体はかなりヤラセや印象操作の痕跡があるので賛否両論ですが)。
(イルカ保護活動リーダーのリック・オバリー)
イルカ保護運動家がイルカ漁を批判する内容ですが、そこではイルカ漁は排除すべきものとして描かれています。かわいいイルカを殺し、水銀が含まれているイルカ肉を食べることは危険だからです。
一方で和歌山県は
イルカ漁は紀南地方の重要な産業であり、地域の伝統文化であるだけでなく、自然資源の科学的な管理および利用に基づいています。
太地町は、紀伊半島の東海岸に位置する人口約3,500人の小さな町です。経済活動の中心から遠く離れてはいますが、捕鯨の地として約400年の歴史があり、鯨やイルカを捕って、栄えてきた町であります。鯨やイルカは当地域の食文化になくてはならないものです。鯨やイルカに関する伝統的な文化行事が年中行われ、イルカ漁は地域経済に欠かせない産業となっています。
(全文はこちら)
イルカやクジラを知性ある友達と見るイルカ保護活動家と食文化の一部とみる太地町の文化は対立します。
どちらの考え方にも良い・悪いはありません。でも守りたいものが違う場合、価値観は対立します。
文化はその土地の生態系や気候、歴史などによって形成されるもの。文化はその土地の持続可能性の一つの形です。それが対立の原因になるのは、めちゃくちゃもったいないことだと思います。
地球を悪くする文化はありません。有害廃棄物を捨てることを良しとする文化はありませんよね?太地町のイルカ漁のように、環境汚染の進行に伴いイルカ肉が水銀汚染されているという議論は出てきますが、もともと文化はその土地での持続可能な在り方の一つです。イルカを取り尽くすようなこともありません。
対立を回避するには、お互いに理解しあうことが必要です。環境問題をめぐる対立だと、特にその土地の生態系や文化、習慣、気候などを理解しなければいけません。
せっかく環境保護をしようとしても、対立していては保護活動にリソースを割けません。こういった対立をどう克服するかは、正直まだわかりませんが必ず取り組まないといけないテーマです。
世界規模で複雑に絡まりあっている環境問題を解決するには、世界で協力が必要です。価値観の対立を克服し、土地ごとの多様さを調和させる考え方が重要になります。
今後、対立をどう回避・解決するかについても発信していきます。